015ってこんなヤツ長編版(修正)

レイコ33の質問

タロット占い師の林レイコです。ライブドアから引っ越してチェックしていたら、長編が消えていたわ(T_T)。

プロフィールは大事よ!言われていたのが消えるとは…。ションボリ心をやや引きずりつつ、エセHUNTER×HUNTER風なタイトルで、まずは、長編一本立て♪

長いトンネル × 学生時代 ×親の影響
15ザックリ書くとウソ子の時代。周囲の話に合わせなくては…という違和感から抜け出せなかった。そこそこやれていたし、だませていたと思う(←多分)でもね、楽しくなかったんだなぁ〜。音楽や本の趣味が周囲とまったく合わないの。

集団生活が嫌いなわけでもないし、助けたり、助けられたりも大丈夫。「合わない」ことが「いいじゃんべつに」と言い切れない自分にずっと引っかかっていた。ながーーーーいトンネルに入っていた、と書けばわかりやすいかな。

私は両親が離婚していて、ちょっと複雑な環境にあった。小中高には、そのわだかまりを抑えていた感情も影響している。今でこそ、インナーチャイルドだのセラピー用語があるけれど、10代のガキにはわからないよね。

フラフラ危うい時代に生きていたなぁ〜と思う。大好きな絵があったから生きてこれたのかもしれない。

いやぁ〜暗いわ(^_^;

天職 × 社会人
10物心ついたときから、夢は「デザイナー」、これだけはブレなかった。母親が洋服のお店を持っていて、色や布に囲まれた生活をしていたから、ともかく絵を描いていると褒められて、褒められて、鼻がピノキオになったわけですわ。

けれど、「服飾のデザイナー=絵を描く人」と勘違いしていたので、自分の縫製技術のなさに即撤収。途中からイラストレーターへの道を専攻。

デザイン学校を出て、就職した会社に三拍子そろったチーフと出会うのです。この人は天才で、イラスト・コピー・デザイン、すべてを網羅できてましたね。半年間イラスト部に在籍しましたが、どうしてもそのデザイン部に入りたくて、社長に直談判。そのチーフのスタッフに入れてもらう荒技を遂行。

無理矢理チーフの横に席をぶんどり、考え方、手法などを間近で見て盗みましたね。なんかもう、職人的な考え方なのだけど(すべての職人がコレではないですよ、念のため)天才肌の人がよくあるように、このチーフは人に教えるのがヘタ!頭の中で構築したものがあっても、1〜10を系統的に伝えられないの。いきなり1が7になったり、またその逆もしかり。

深夜に帰宅なんてのは日常茶飯事だったし、泊まることもある。結果的にこの時期のがんばりが蓄積となって、海外でもデザインで生きていけるまでになった。きつかったけど、実のある楽しい時代。

小中高ではすきなコンテンツがなかったけど、専門学校では水を得た魚みたいにガンガン絵を描いていた。自分と同じ考え、志の人がココにいたんだ…って思えた時期だから、楽しくなくてどうするよ!ですけどね。

デザイン事務所だって同じ。先輩は本当にすごかった。銀行系の固いデザインを得意とする人もいたし、私が付いた自由奔放なデザイナーもいた。身を置くことで自分がどこに向かいたいか、それが明確になった時代だったな。

夜明け前 ×新たな道の扉
16そんな仕事に没頭する中、自分に疑問を持ち始めるのですよ。「見知らぬ土地で自分は生きていけるのか」と。

そこで、ワーキングホリデーで海外へ行くことを決意するのだ。もともとのんきな人間なので「何とかなる」が信条。ダメなら帰国すればいいし、必要なのはパスポートと航空チケットのみ。行こう!、辞めよう!、会社卒業だ!!

と、飛び出しましたわ、勢いよく。
…で、イザ、日本脱出を計画する一ヶ月前に、交通事故に遭い1年を入退院の日々に突入。

もうね、笑うしかないケガでした。救急車に乗せられて搬送されるときも意識がもうろう、病院で声をかけられるも「ふぁい」と力なく返答。一歩間違えたらこの世界ともおさらばだっただろうし、失明の危険もあった。今でこそ、それなりになりましたが、当時はやっぱすごかった。

病室では母親が光るモノにすべてタオルをかぶせているの。私がソレを見て悲しくならないように…、って夜になれば窓ガラスでわかっちゃうんだけどね、それでも親は隠そうとする。その愛情に泣けたなぁ←遠い目

自殺…とか考えたことはなかったけど闇を垣間見た気はする。死にたい…とかでなく、「あぁもういいや」の闇。

ケガは1度に手術できなかったため、1年の間に入退院を数度繰り返した。その中で、短期のバイトをしたりするけど、やっぱり海外のことが頭を離れなかった。(どれだけ行きたいんやって話やね)意を決して、母親に「行く決意」を知らせ、お金を貯めるためさらにバイトに燃えちゃうのだ。

情熱大陸×おもちゃ箱
21オーストラリアは私にとって第二の故郷。ここで、本来の私がスパークしたと思う。ここを選んだ理由はただひとつ。動こうと考えていた時期が2月だったからなの。ホレ、イギリスやらカナダはその時期半端なく寒いでしょ?お金ないと死ぬよね?

私の持ち金は30万程度。それも兄が空港で10万を持たせてくれたから増えたのであって、自分は約20万しが手持ちがなかったのではないかな。帰国に必要なのはパスポートと航空券だけと思っていたので、それ以外はあまり大事でなかった。

初めての海外、知り合いナシ、語学力ゼロ。本当によくがんばったよ。我ながら自分を褒めたいッス。

迷って人に道を尋ねるときに必要な、辞書を3冊バッグに入れシドニーを歩いていたなぁ。当時は今みたいにスマホなんてないから、単語を調べるには辞書しかなかった。3冊の重みが保険のようなもので、持っているだけで安心感があったの。

この時代のキセキの話はたんまりあるけど、そこは割愛っす。シドニー到着後2週間で、未来のパートナーと知り合い付き合うことに。

ほとんど日本人の友人は作らず、飛行機の中で知り合ったイギリス人の女性と半年くらい遊んでいたな。彼女は看護師でお世話することになれていたのか、とても親切で休みの日には遊びに連れ出してくれた。ものすごい早口だったから、英語を聞くことは彼女から学んだような気がする。

仕事はアニメーター試験受けたり、免税店でバイトしたり、手当たり次第トライした。

デザイン事務所に作品持参で出ても、ビザがないのでムリと言われちゃうのよ。それでもめげずに電話しまくっていたら、なんと日本人の社長にヒット。運良く会ってもらい、無理矢理その会社に入り込んだ。

入ったからには結果を出さないとヤなので英語のアンチョコを作り、電話の応対やファックス応対に明け暮れたな。もちろんその中でデザインの仕事もしていたので印刷所の営業と英語で冗談を交わすまで、ちょっとずつ成長してたように思うわ。

ってか、すべてコピーですがな(^_^;
ともかく、当時の私は貪欲が洋服を着ていたの。コトバの壁は貪欲でないと克服できない、だって誰も助けてくれないから。

誰かが話している言葉、お願いフレーズなどなど耳にとまった単語はすべてノートに書いて、帰宅後に夫に聞いて清書する。(残念ながら、すっかり今は忘れてしまいました〜〜〜)これを繰り返していましたね。

途中からビジネスビザをもらい、2年半くらい住んで日本に帰国。

天職 × バラバラ×ライター×占い

帰国してからは、アメリカ人が経営する会社に「オレを雇うと役に立つよ〜」と、積極営業^^。すごく給料も安かったけど、こちらも自分を隠さず仕事できる環境だったな。当時は今ほど外国人が英会話学校以外でビジネスをすることが珍しい時代だったので、ともかく社長は世間様から注目を浴びた。

適度にハンサムだったのも大きかったのかもしれないな。つまり若かりしブラピが日本語をカタコト話すってイメージすればわかるかしら?老若男女はコロッとくるわけですよ。たしか、TVの取材とかもあったように思う。むろん、社長の!ですがね。あ、途中、離婚もやっとります。テヘッ!

そんな天職とも言えるデザイナー稼業だけど、あるときから自分の能力の限界を感じてくるのだ。引き出しが減ってきている、デザインすることに興味がなくなってきている…デザイナーに貪欲さが失われればクリエイターとして退く時期じゃないのか。もしくは、新しい引き出しを…と増やすために勉強しよう!とライティング教室や大学に通い始めた。

ライティングの面白さは、松岡正剛さんのスクールで学んだ。ここで、ライターの才能があるのでは…と魔法にかかるのだな。賞とかもらっちゃったので、余計に「私ってすごくね」となる(^_^;

…で、行こう!、辞めよう!、会社卒業だ!!2011年の春にお決まりのフレーズが脳内を駆け巡り、円満退社。

経験も知り合いもない世界に飛び込み、webの世界を彷徨いましたわ。地図のない道は、焦りと不安とオロオロが三位一体になっていた。

ライターは取材してまとめるもの、占いライター、旅ライターなどなど現地に出かけたり、電話取材したり、教えてくれる人はいなかったから必死+必死+必死、素人って思われてはイカン、と虚勢を張っていたなぁ。

ライターだけで食べられるワケでもなく、同時進行でバイトは必須。研究室や役所など、「こんな世界もあったのか」という新鮮さも味わった。

タロット× スロット × ガンバロット

2014年のある時期からからピタリと仕事が回らなくなった。何をしてもうまくいかない、手詰まりの状況なのですよ。

そこで、「占いライター」で文章を書くときに、占術がもっとわかればいいな…と思っていたので、勉強しようと思い立ったのだ。自分の性格を考えたら、四柱推命とか勉強系は合わない。視覚から入る「タロット」がいいのでは…と安易に決定。

さまざまな体験講座に行くも、なんとなくしっくりこなかったなぁ。模索を繰り返し、やっと師匠と出会う。カードの意味や展開などはわからなかったけど、インタビューの経験、占いライターとして培った知識が大いに役立った。

師匠から集中講義を受け続けて、知恵熱と戦いながら卒業。すぐに、電話鑑定の会社に入って占い師として歩き始め現在に至りますよ。今まで鑑定した人数は約5000人。←多いか少ないかはまったくわからない(^_^;

2017年の現在は自分のスタイルって「翻訳者」だ、と認識してきたところ。占いというよりも、その場に出たカードはクライアントの引き寄せやすい未来。これをしっかり翻訳し、伝えること。
そこからどう変更したいか、このまま進みたいか、それを一緒に考えるスタイル。

そうやって日々、クライアントと対峙していますよ。活動の幅は、対面、電話、チャット、ポレポレ(高宮の立ち飲み処)へとジワジワ拡大中。

以上がレイコ物語長編版っす。

ずーーーっとスクロールして読んでいただき感謝です。林レイコってこんなヤツってのが、少しでもわかっていただけたかな???


こんなヤツですが、よろしくお願いいたします♪

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